ハマノマサゴハ 尽キルトモ

ヒトと動物に共通する意識下のしくみは何か? ヒトは他の動物と何がちがうのか? あらゆるモチベーションの源泉でもあり、一方で内なるケモノと化すこともある「情動:emotion」への理解を深めることで、心やすく生きるためのヒントになればと思います。

理系人間というレッテル貼りの危うさ

長いこと自分のことをバリバリの理系人間だと思って生きてきました。理系教科が好きで、いつ誰がやっても同じように成り立つ原理・法則にこそ価値があると 信じてきました。それに対して歴史のように(表面的に見たら)ランダムな事象を扱う文系教科のことを、内心は理系教科の下にみていました。ところが、自分 自身の中に頭では理解できない不合理な心の動き(情動)があることをはっきりと自覚したことをきっかけに、理系人間であるという自負は打ち砕かれ...


理系学問・文系学問の違いは何か
そもそも、学問としての理系と文系の違いは何なのでしょうか。いろいろな表現の仕方があると思いますが、あえて「情動」という用語を使うならば、「文系はヒトの情動を介した事象を対象とした学問体系、理系はヒトの情動を介さない事象(ナマの自然)を対象にした学問体系」と 表現することができると思います。ステレオタイプ的な文系 VS. 理系の特性としてあげられることをみると、直感的 VS. 理論的;デザイン性 VS. 機能性;女性 VS. 男性;肉食系 VS. 草食系 などの対比があるようですが (1)、直観性・デザイン性(一目見て気に入る)・肉食系などは情動との親和性が高いことからみても、情動に基づいて文系と理系の区分をすることは別段に的 外れではないでしょう。

理系学問という行為に内在する「捻れ」
ところで、ヒトが学問を学究す る行為自体は好奇心が動機になっているというのは文系も理系も同じでしょう。ギリシャ時代の暮らしがどのようだったかを知りたい~ということも、水の中で 身体が浮いた感じがするのはなぜか~と考えることもヒトの知的好奇心を刺激し、それが理解できたときには喜びとなって感じられる(正の情動を獲得する)事 象です。(アルキメデスが浮力の原理を思いつき喜びのあまり浴場から裸で飛び出したことは有名。)つまり理系学問の構造には、情動を介さない(理系的)対象として扱っているにも関わらず、学究行為そのものが情動を介した(文系的)ヒトの活動であると いう「捻れ」が内在しています。しかし実際にはこの捻れが意識されることはなく、むしろ捻れがないかのように思われているフシすらあります。そのことは、理系 研究者の態度--自分たちの研究対象と同じように自分たち自身も合理的・理性的な振る舞いをしていることを疑わない (2)--や、理系人間をいつでも理性的な判断ができる存在と思い込む周囲の思い込みに見て取ることができます。理系研究者にとって主観と客観の区別は(たとえば聖職 者が我欲を超越していることと同じように)当然持ち合わせるべき素養だと思われていますが、実際にそれが行き渡っているかといったら疑問を抱かないわけに はいきません。

文系が扱う対象は決してランダムではない
他方、文系の学問の扱う対象は、ヒト の情動を介しているために不合理や矛盾だらけの一見ランダムであるかのようなイメージをいだきがちです。しかし情動という、種 存続には欠かせない堅牢な生物学的なメカニズム(原始は食欲と性欲)があらゆる活動の根底にあると考えれば、実はすっきりと統一的に理解できるように思います。歴史、政 治、経済、芸術などがヒトの情動を背景にしていることは想像しやすいですし、法学ですら、活動を無制限に情動と結びつけようとするヒトの性(さが)に一定 の制限を与えるもの、と捉えることもできるでしょう。全くのランダムではないからこそ、同じようなことが時代・地域・人種を越えて繰り返すだろうし、過去 や未来のことを現代人が想像する妥当性も保証されているのでしょう(もちろん細かくみればさまざまな修飾は起こりえますが)。

科学上の不正:情動をもつ生物としての宿命
一 時期マスコミを騒がせ、日本の科学界に大きなショックを与えた小保方問題もいまではすっかり沈静化された感があります。そして(それだけが原因ではないで しょうが)それを教訓にして科学上の不正を防止するために、現場の科学者に対する啓蒙活動たとえば、120ページにわたるテキスト (3)を利用した研究倫理教育(通読や講義)なども行われています。このような活動自体は行われてしかるべきですが、同時に物足りなさも感じます。いって みれば、薬物乱用防止活動としての「ダメ、ゼッタイ」のようなもの。科学的な不正は、理性的に語られる倫理観の欠如が原因なのではなく、意識下で人間を突 き動かす情動・欲望にその根源があるという視点を欠いていたら、このような啓蒙活動も絵に描いた餅です。科学上の不正の問題を、一部の恥知らずな研究者の 独走と切り捨てるのではなく、研究者であれば誰でも陥る危険性のある問題なのだと認識することが必要です。それこそ、不正問題は文系学問が研究対象としてしっかり扱 うべきテーマなのかもしれません。

まとめ
理系人間だから~というよう なレッテル貼りには本人にとっても周りにとっても、本質を見誤る危険性を孕んでいます。(私自身、自分へのレッテル貼りが長いこと視界を妨げていまし た。)誰しもがもつ意識下の情動・欲望の存在を見て見ぬふりをするのではなく、その存在を認めながらも大脳皮質的な理性でコントロールするといった、ある 意味で動物の宿命から逃れる努力が、科学者いや科学者に限らず新時代の市民一人一人に求められているのだと思います。

(1) 人生を賢く生きる知恵 http://life.searchai.jp/1821
(2) 文系研究者は非合理や矛盾含んだものを研究対象として日頃から扱っているので、自分自身が情動を介して非合理的な行動をしうることを受け入れる余裕もあると想像されます
(3) 科学の健全な発展のために -誠実な科学者の心得- 日本学術振興会https://www.jsps.go.jp/j-kousei/rinri.html